『エドゥアルド・トゥビンの交響曲』

 
 いま、塩野七生の『ローマ人の物語』という本が話題になっています。カエサルやネロを主人公にすえて古代ローマ帝国を語ろうとする、このシリーズ。ネルヴァからマルクス・アウレリウスに至る五賢帝の物語まであります。この一連の作品は、伝記でもなければ歴史書でもなく、小説です。ことによると、かつてトルーマン・カポーティが『冷血』を発表したときに使い、ノーマン・メイラーに「想像力(イマジネーション)の怠慢」と噛みつかれ、批評家たちには悪ふざけのキャッチフレーズと批判された「ノンフィクション・ノヴェル」という概念でとらえるほうが、もっとふさわしいかもしれません。
 
 この種の著作はずっと以前からありました。もっとも重要な一冊が、フランスのマルグリート・ユルスナール Marguerite Yourcenar の『ハドリアヌス帝の回想(Mémoires d’Hadrien)』です。余命を知った、五賢帝のひとり、ハドリアヌスが孫のマルクス・アウレリウスに語る「自伝」という形をとり、彼の思索の跡をたどる作品です。白水社から邦訳が出版されていて、手にした時には夢中になって読んだことを覚えています(グレイス・フリック Grace Frick が著者の協力のもとに翻訳した、美しい文章の英語版が Farrar, Straus and Giroux から出版されています)。イギリスのメアリー・リノールト Mary Renault の『Fire from Heaven(天からの火)』と『The Persian Boy(ペルシアの少年)』(ともに Pantheon) も面白い作品でした。いずれもマケドニアのアレクサンドロス(アレクサンダー大王)を主人公とし、歴史上の人物たちが生き生きと描かれていて飽きさせません。神田の古書店で見つけた、フレデレリック・ファロン Frederic Fallon の『The White Queen(白のクイーン)』(Doubleday) -- スコットランドの女王メアリーの物語 -- も、あまり大きくは取り上げられなかったようですが、登場人物を人間味たっぷりにリアルに再現することを試みた力作だと思います。出版直後に著者が自動車事故で亡くなってしまったことが悔やまれます。25歳の若さでした。
 
 同じ歴史を扱いながら、どうして歴史書よりも小説のほうに惹かれてしまうのでしょうか(もちろん、好みの問題もありはするでしょうが)。ほとんど疑問に思うこともなく「フィクション」を楽しんでいたところに、先日、塩野七生さんが、小説家の平野啓一郎氏との対談の中で興味深いことを言っていました。歴史を題材にした作品を書く作家も歴史家たちと同様に古文書や研究書などを幅広く研究します。しかし、塩野さんは、「歴史家と作家の両方が同じ人物を研究しても、最終的にその人間像をよりリアルに描くことができるのは作家」と、断言していました。そして、たしか彼女は「わたしたちの勝ち」という言い方をしていました。その理由として、作家はイマジネーションを働かせることができることを挙げていました。そういうことはあるでしょうね。ローマで執筆をつづけている塩野さんの場合、コロッセオであれフォーラムであれ、歴史上の人物が立ったその場所に出向いていき、曙光をながめ、日没のときの空気を肌で感じながら想像力を働かせるのは、たやすいことだと思います。
 
 作家の作業と同じように、作曲家が歴史を題材にした作品を書く場合にもイマジネーションがとても重要な要素を占めるはずです。ローマの話が出たついでに例に挙げると、レスピーギの《ローマの松》の第4曲〈アッピア街道の松〉迫力ある音楽は街道を行軍するローマの軍団を描写したものといわれます。作曲者の想像力が、遠い昔のローマまで届いたというわけです。
 
 しかし、もし作曲者レスピーギがローマに「征服された」土地に住んでいたとしたら、進軍する兵士の音楽が「カッコいい」だけの気楽な音楽ですんだでしょうか? もし、作曲家が現実に「過酷な」歴史に巻き込まれていたとしたら……。イマジネーションにくわえて「その歴史を生きた」作曲家の内面にあるもの、たとえば「心の痛み」が作品に反映するに違いありません。ロシアの圧政下にあったフィンランドでシベリウスが書いた《報道の日祝賀演奏会の音楽(新聞祭典の音楽)》-- 終曲の〈フィンランドは目覚める〉が《フィンランディア》の原曲となった -- や、ノルウェーのハーラル・セーヴェルーがナチス・ドイツに占領された時代への怒りと悲しみを音楽にこめた「抵抗三部作」と呼ばれる交響曲は、「当事者」の音楽のいい例でしょう。
 
 歴史に翻弄された当事者として、祖国への想いを生涯を通じて音楽で語った作曲家のひとりが、バルト三国のひとつエストニアの作曲家エドゥアルド・トゥビンです。
 
 北欧文化圏に含まれるバルト三国も、長い歴史のなかではさまざまな苦難の道を歩んできました。リトアニアのヴィルニュスやラトビアのリガなど、世界遺産にも登録された地区をもつ都市のそこかしこに、悲しい歴史を語る場所が現在も残っているといいます。そういう地域だけにバルトの国々の作曲家には、そういう歴史を反映させた作品を書いた人たちが数多くいます。そのなかでもトゥビンは、すでに北欧音楽を知る人の間では「ビッグネーム」になっている作曲家です。大束省三さんの『北欧音楽入門』にあるとおり、スウェーデンの BIS Records から発表された1枚のLPがきっかけとなり、その後彼の重要な作品が次々と録音され、また各地で演奏されるようになりました(広島交響楽団も彼の《コントラバス協奏曲》をプログラムに取り上げたことがあります)。
 
 エドゥアルド・トゥビン Eduard Tubin(1905–1982) は、エストニアのトリラ -- ペイプシ湖畔のカラステ近くの村 -- の漁師の家に生まれました。父親は村の楽団でトロンボーンを吹いていたということです。1920年にタルトゥ師範大学に入学。ほぼ同時期、1924年から1930年の間、タルトゥ音楽高等学校でヘイノ・エッレル Heino Eller(1887–1970 のクラスで作曲を学びます。1926年に師範大学を卒業後はタルトゥに近いノオで教職につき、1930年からはタルトゥに移ってヴァネムイネ劇場の指揮者として音楽家としての活動を開始しました。「タルトゥ男声合唱クラブ」、混声合唱の「ミーナ・ハルマ協会」と「ヴァネムイネ協会」など、合唱活動にも大きな力を発揮するようになります。

 トゥビンにとって最大の転機となったのは、ナチス・ドイツが占領していたエストニアに、1944年9月、ソヴィエト軍が再び侵攻してきたことです。トゥビンは、この時、多くの同胞たちとともにスウェーデンに亡命します。ストックホルムに居を構え、王立ドロットニングホルム宮廷劇場に保存されていたオペラの楽譜の修復作業に携わるかたわら、作曲活動やストックホルム在住の人たちにより結成された「エストニア男声合唱団」の指揮者としての活動(1945年–1959年、1975年–1982年)などに力を注ぎます。
 
 スウェーデン移住後の作品は、エストニア時代のスタイル -- 交響曲でいえば第1番から第4番まで -- を彼自身の中で更に発展させ、エストニアの民俗音楽をスウェーデンで身に付けた新しい表現方法と融合させた独特の様式による音楽が、彼の全作品の中でも特に重要な位置をしめる作品群といわれます。
 
 トゥビンは、1981年のストックホルム市栄誉賞につづき、翌1982年には王立スウェーデン音楽アカデミーの会員に選出されました。彼が亡くなった年です。
 
 トゥビンが残した作品はかなりの数にのぼります。交響曲をはじめとする管弦楽作品。そのなかには、ヴァイオリン、ピアノ、コントラバス、バラライカなどの楽器ために書かれた協奏曲も含まれます。その他、室内楽曲、ピアノ曲、歌曲、合唱曲、そして2曲のオペラ。トゥビンの場合、録音された曲を聴いたかぎり、これだけはどうも、という作品がないのは、大事なことでしょう。トゥビンの友人でもあったエストニアのピアニスト、音楽学者のヴァルド・ルメセン Vardo Rumessen(1942–2015)も、そう語っています(ルメセンはトゥビンのピアノ作品全集を録音(BIS CD414/416)しており、その音楽も一曲一曲がとても魅力的です)。ついでに言うなら、エストニアの民謡に基づく作品でさえ素材の処理のしかたが極めて洗練されているのは、トゥビンの音楽の特徴と言っていいように思います。
 
 トゥビンは、管弦楽のための作品にもっとも力を注いだといわれます。そのなかでも11曲の交響曲 -- 第11番は未完 -- はいずれも傑出した作品で、トゥビンの作曲家としての評価を確実なものとしたのは、まず、これらの交響曲でした。作曲者の個人的な体験から生まれた楽想を、全体の劇的な構成を把握したうえで、対位法的に展開させる。これは、全部の交響曲に共通します。トゥビンの作曲家としての力量の証しでもあります。そして、管弦楽法には無駄がなく、しかし、効果的です。実にすっきり書かれているスコアなので、実際に音として響いた時とのギャップに驚かされます。
 
 同胞人トゥビンの交響曲についてヴァルド・ルメセンは、こう語っています。「彼の交響曲は、それぞれがあまりに完璧で独特の世界として描かれているために、ひとつひとつが新しい世界観に基づいて書かれたかのように思えてくる。すべての交響曲が、それぞれの作品に応じて、人生と民族への理解、そして祖国と国家への愛を反映している。同時に、彼の交響曲には、エストニアの人々と彼らの自由と独立へ向けての闘争の歴史とも密接な繋がりがある。トゥビンの作品の音楽としての絶対的な質の高さを強調することはもちろんだとしても、彼の作品と、祖国、そして国家との直接の関係を否定することはできない」。また彼は「トゥビンの交響曲にはどの作品にも何かユニークなところがあり、それぞれ違った感じ方によって世界がとらえられている」とも付け加えています。そして、「巨匠の作品の常として、トゥビンの交響曲のどれかひとつを他よりも好きだと言うのはむずかしい」。
 
 第1番の交響曲ハ短調は、1931年12月1日に作曲に着手され、1934年5月11日に完成しています。初めて交響曲を手がけることの困難もあったでしょうが、当時タルトゥの劇場の指揮者の職にあり、午前中のリハーサルと夜の公演の合間の午後を作曲に当てざるを得なかったという事情もあったようです。また、二十代なかばのトゥビンには、この曲によって語りたいことが、それこそ山ほどあったと考えることもできます。この作品には、交響曲にかぎらず、後のトゥビンの音楽を特色づける多くの感情がすでに数多く聞こえてきます。美しい暁に象徴される祖国への愛、郷愁、希望、憧れ、あきらめ……そして歓喜さえ。最初の楽章の主題が中間と最後の楽章にも(変形し、あるいはそのまま)現れる、トゥビンの交響曲にしばしば見られる手法がすでにこの曲にも使われています。そして、約2年半かかって出来上がった音楽は、最初の交響曲にあってもおかしくない、気負いもなければ、作曲家としての未熟さをうかがわせるところもありません。
 
 作曲者の「署名」もすでにはっきりと見え -- 後の交響曲にしばしばみられる独奏ヴァイオリンの歌や、金管楽器のファンファーレ -- 構成の確かさに支えられた、説得力のある音楽づくりは「トゥビンの交響曲」でしかありません。第1楽章の導入部、アダージョに現れる2つのテーマのうち、最初のテーマはいわば交響曲全体のメインテーマでもあり、形を変えて(第2楽章)、あるいは元のまま(第3楽章)印象的に後の楽章に再現します。また、ハ短調で力強く終わりながら金管楽器が不協和音を演奏する第1楽章のコーダ、同じく不協和音で閉じる第2楽章、それに対してハ長調の輝かしい和音が全曲を締めくくる第3楽章と、構成の巧みさもこの曲に感情の起伏と奥行きを与えています。自身の音楽に対する愛情と確信にみちた作品です。
 
 つづく第2番は「ドラマ」に対するトゥビンの感覚がさらに強く発揮された作品です。作曲者みずから《伝説的(Legendaarne/Legendary)》との副題をつけ、スコアの第1楽章導入部の頭には通常の表情指定のかわりにフランス語で "Légendaire" と記しています。1937年、夏の休暇で滞在していたエストニア北東沿岸部のトイラで作曲に着手し、この地の「すばらしい静けさ、海、自然、そして夏」に触発されながら曲を書いていきました。13世紀、エストニアの自由を守るため、ドイツから攻め込んできたテュートン騎士団と戦い、悲しい最後を迎えた戦士たち。「チェスの好きだったトゥビンは、エストニアの戦士を表す白のコマとテュートン騎士団を表す黒のコマが戦うエストニア式のチェスのことを考えながら作曲をすすめた」とルメセンは語っています。こうして「エストニアの過去」に想いを馳せた交響曲が誕生します。ただ、歴史上の出来事からインスピレーションを授かり、「伝説的」というタイトルがつけられたとはいっても、この交響曲は標題音楽としては書かれませんでした。そのことは、この交響曲にかぎったことではなく、他の交響曲、そしてトゥビンの全作品について言えることです。先日ルメセンから受け取った手紙には「トゥビン自身が明言した」とはっきり書かれていました。
 
 澄み切った大気のような冒頭の音楽。ヴァイオリンとヴィオラが幻想的な雰囲気を醸し、静かなピアノのアルペッジョも加わって、われわれをはるかな昔へと誘ってくれます。次第に音楽は高揚し、束の間の静穏の後に始まる激しい戦闘。そして、葬送の音楽。更なる戦いが始まり、すべてが終わる。死んだ戦士たちを悼むかのような独奏ヴァイオリンの挽歌。そして、エストニアの自然は、何もなかったかのようにかつての姿に戻り、勇壮で悲しい交響曲は「伝説」となっていきます。
 
 第3番の交響曲は、トゥビンにとってもっともつらかったと思われる時代に作曲されました。スコアの表紙には書いてないものの、トゥビン自身がまとめた作品リストでは《英雄的(Heroiline/Heroic)》という副題がついています。作曲を始めた1940年12月の6カ月前、エストニアはスターリンによってソ連に併合。翌年の夏までに8万人のエストニア人が殺されるか、流刑地に送られるかしたといわれます。そして、一年経つか経たないかの間に、こんどはナチス・ドイツが侵攻。第1楽章が書き上がったのは1942年の5月はドイツ軍の占領から約9カ月後のことです。同年10月には全曲が完成し、翌1943年2月26日に首都タリンで初演されました。2日前の2月24日は、もし自由な時代であれば、エストニア共和国の独立記念日が祝われていた日です。作曲者はむろんのことエストニアの人々はどんな気持で初演を聴いたでしょうか。憎悪、怒り、絶望……。
 
 第1楽章、主要主題につづいてオーボエ独奏で歌われる、民謡を思わせる副主題は、作曲者の心の訴えのように聞こえます。つづくフーガの音楽は、作曲者の怒りのなのか、統制下でのエストニア国民の生活の現実と理想の葛藤を心理的に描いているのか。フーガの合間に顔をのぞかせる抒情的な音楽と、コーダでは勝ち鬨の歌となる主要主題がきわめて印象的です。
 
 ついでながら、この楽章の最初でベースが奏する民謡風の旋律に関連してルメセンの手紙にはこう書かれています。「エストニアの民謡のように聞こえるかもしれませんが、実際は違います。しかし、この交響曲全体の楽想は、ソヴィエトとドイツに占領された時代のエストニア国民の気持と明らかに結びついています。また、この曲は、多くの音楽家たちから『英雄的な』交響曲と呼ばれてきました。エストニアの自由と独立という理想をはっきり宣言する音楽だと、わたしも考えます。といって、(民謡の引用のように)そのことを直接暗示するものは何もありませんが」。
 
 第2楽章スケルツォの中間部のトリオでは、独奏ヴァイオリンが抒情的な歌を奏でます。第3楽章の冒頭のトロンボーンの呼びかけは、まるで「エストニアの民よ立ち上がれ!」とでも言っているかのようです。 この旋律は、楽章の途中でも楽器を変えて奏されます。人々の独立への歩みが結集し、支配者を駆逐するかのように大きなうねりとなっていく音楽。勝利への行進曲を導く金管楽器群のファンファーレ。しかし、独立は実際には願望でしかない。束の間、音楽は、なりを潜めるものの、いつか訪れるエストニアの自由の日への願いよ届けと高らかに凱歌が響き全曲を閉じます。フィナーレの音楽は、 強固な構成が持ち味のトゥビンにしては、 やや「英雄的」な響きが誇張されたきらいはありますが、悲惨な時代のまっただ中で作曲されたことを思えば、むしろ未来への強い願望のゆえと考えたいところです。
 
 対照的な雰囲気の作品が第4番の交響曲です。《シンフォニア・リリコ(Sinfonia Lirico)》という副題 -- 手元のスコアでは「Nr 4(第4番)」のほうがカッコ書きになっています -- が示すとおりの「抒情的な交響曲」。エストニアの春や夏の自然はこうだろう、と思わせるような音楽は「パステルカラーのシンフォニー」とでも呼びたい誘惑にかられます。初演を指揮したオラヴ・ローツ Olav Roots が、「うす暗闇の中で輪郭をなくしてしまっていた田園地帯に、北欧の夜の柔らかい光が拡がっていく」と表現する、第1楽章の開始。ヴァイオリンとヴィオラの弾く第1主題が春の訪れを予感させます。ヴィオラと第2ヴァイオリンにつづいて、この主題をフルートと第1ヴァイオリンが「エスプレッシーヴォ(表情ゆたかに)」で展開させたあと、バスクラリネットとそれぞれ3声部に分割された(div.)ヴィオラとチェロの上で独奏オーボエが奏でる第2主題。指定は「カンタービレ(歌うように)」です。分割弦による演奏が、ひろがりを感じさせます。つぎの第2楽章はスケルツォ風の軽快な音楽ですが、じっくりと感情表現させることを求める表情指定がいくつも書き込まれています。
 
 「第4交響曲と同じ時期にトゥビンは、独唱のための歌曲を数曲書いており、その1曲《幸せを待ちわびて(Onne ootel/Waiting for happiness)》は、この交響曲の最初の部分に通じるところがある。ヘンリク・ヴィスナプーの詩による歌曲《夏の夜(Suvine öö/Summer night)》には『うす暗く、美しく、祝福されたのは夏の夜(Sume, lembe ja onnis on suvine öö/Dim, lovely, blessed is the summer night)』という一節があり、これを第3楽章の題辞として引用してもいいかもしれない」。ハッリ・キースク Harri Kiisk は、BIS のディスクの解説で第3楽章についてこのように書いています。作曲者自身が「まさに交響的で、元気のでるアレグロ」と語ったとされる第4楽章は、第1ヴァイオリンのハミングするようなピアニシモの旋律が、しだいに他の楽器を誘いながら高揚していきます。そして、輝かしいコーダ。
 
 この曲は、1943年の8月に完成され、翌年の初演にむけてパート譜を作成するためにスコアは首都タリンへ送られました。パート譜は完成、スコアとともにエストニア放送の金庫に保管されます。ところが、初演も近い3月9日、ドイツ軍占領下の首都タリンはソ連軍の空爆を受け、放送局が入っていたエストニア劇場は破壊されてしまいます。金庫は地下に落下したものの、幸いなことにスコアの端が焦げていただけでパート譜は無傷でした。交響曲第4番は、4月16日、会場をタリン・ドラマ劇場に移して初演。しかし、この年の9月20日、トゥビンはトリーヌ号に乗ってスウェーデンへ亡命。この第4番の交響曲が美しい祖国への惜別の歌になってしまいます。
 
 その後、1978年になってトゥビンは初稿にカットを施し、「より引き締まった」版(トゥビン) が誕生しました。1982年11月5日 -- ハッリ・キースクの解説では1981年とされていますが、ルメセンによると1982年が正しいようです -- 改訂版はベルゲンで初演。BIS のディスクはその時のライヴ録音を音源とし、聴衆の熱気のこもった拍手がそのまま収録されています。
 
 交響曲第5番をヴァルド・ルメセンは、単にトゥビンの最高作というだけでなく、エストニアの交響作品のもっともめざましい偉業のひとつと位置づけ、「熟練した技術と展開の激烈さ、意図の実現の方法、そして主題の基になったエストニア民謡に与えた象徴的な意味合い」を強調しています。エストニアの国民にとっては、フィンランドの人々のシベリウスの《フィンランディア》と同じ価値のある、「エストニアの国民的交響曲」と呼ばれていいというのが、彼の考えです。亡命後の1946年に作曲されました。
 
 この作品の圧倒的な力と魅力を語るものとして、ルメセンは、1947年11月16日のストックホルムにおける初演の翌日の新聞に載った、スウェーデンの作曲家モーセス・ペルガメント Moses Pergament(1893-1977) の批評を引用しています。「堂々とした作品。楽想と、主題の構造的矛盾の両方から内的な緊張が生まれていることが感じられる……エストニアの国民的悲劇を音楽により描写することが意図され、実現されたことは、疑いがない。そして、未来と、自由の予言的展望に対する宗教的とさえいえる信念に匹敵する力と芸術的空想をもった劇的性格の音楽が創造された……第5交響曲は、作曲者が音楽の表現形式に極めて精通していることを物語る巧みさをもって作り上げられている。予定したことに縛られず、厳格な音楽の論理のままに作品を創造する。彼の音楽は強い印象を与え、気持を高めてくれるが、それだけではなく、気持を鎮め、心を開放してもくれる。終楽章のコーダは、紛れもないシナイの山。そこからは約束の地がはるかな楽園のように見渡せ、雲のヴェールはより高く、もっと高く、勝利を喜ぶ長調の最後の和音に収斂していく」。
 
 第1楽章を始めるのはエストニアの民謡《子供のころの小道(Mel aiaäärne tänavas/My childhood lane)》に基づく主題です。この交響曲の起動力になった背景を象徴的な示す曲とされます。楽章の最後の心にしみる音楽は、1944年の秋にトゥビンと何千ものエストニア人たちが渡った荒海を「美化した」ものと、作曲者自身が語っています。第2楽章では、エストニアの民謡《向こうの方で夜が終わる(Öö lopeb tääl/The night ends yonder)》が、解放への約束のメッセージを運び、変化に富んだ第3楽章の最後を閉じるのは、ティンパニの強打とともに凱旋する強烈な音楽。同じエストニア人としてルメセンがこの曲を高く評価することがわかるフィナーレです。
 
 交響曲第6番(1952-–54)は、晩年のトゥビンが、ピアノソナタ第2番(1950)とともに、自分にとってもっとも重要な意味をもつと考えていた作品です。「浅薄さが増殖し、道徳心が低下していく現代社会に対する抗議の意志を表明する」。トゥビンの目に、そうした時代を反映するものに見えたのが、ジャズの流行でした。作曲者自身がそのことを語っています。「クラシカル音楽とくらべ、ジャズを堕落の兆しだと思った。粗悪で常套句の即興は、特に空虚なものに感じられた。悲観論者になった主な原因は、ジャズの悲劇的な面を見てきたことにもある。ドラッグ、アルコール……。第6交響曲を書いた1952年から1954年の間というもの、わたしはジャズがまじめな音楽を駆逐するのではないかと恐れていた……」。
 
 世界を攻撃する邪悪と人間の道徳的な尊厳の相剋をテーマとし、その悪を破壊する建設的な力を示したのがこの交響曲というわけです。表現の手段としてボレロ、ハバネラ、ルンバなどの踊りのリズムが多用され、ジャズの「退廃的」雰囲気を象徴する楽器サクソフォーン -- この曲ではテナーサックス -- に重要な役割が与えられています。そのことについてトゥビンは、「この楽器(テナーサックス) のためのダンス音楽を書くことではなく、この楽器をできるかぎり悲劇的に使うことが目的だった」と言っています(トゥビンは《アルトサクソフォーン・ソナタ》(1951)という素敵な曲を書いており、とかくクラシカル音楽では新参者ないし継子扱いされがちのこの楽器に対して偏見を持っていないように見受けられます)。これにピアノやさまざまな打楽器が加わり、作曲技法を駆使した音楽が展開していきます。
 
 全体は3つの楽章にわかれています。ヴァルド・ルメセンは、エストニアのグラフィック・アーティスト、エドゥアルド・ヴィーラルト Eduard Wiiralt の作品になぞらえて、それぞれの楽章を「地獄」「キャバレー」「説教師」と呼んでいます。弦楽合奏の刻むボレロのリズムで始まる第1楽章は、スコアを見ていたら頭が痛くなるような「リズムの祭典」。第2楽章は、ルメセンがデュオニソスの祭と呼ぶ楽章です。ピアノソナタ第2番の第1楽章の主要主題 --「北極光(aurora borealis)のテーマ」-- が、破壊の象徴として使われ、世界の無秩序を表現します。第3楽章についてトゥビンは、「これはまったく新しいダンスだ。といっても今日ではなく、過去の舞曲、シャコンヌ。しかも、組立はシャコンヌでありながら、現代のリズムをもっている」と言っています。そのため、荘重な「シャコンヌ」で始まりながら、音楽はみるみるうちに複雑になっていきます。拍子だけとっても、最初の4分の3が6小節後には4分の2になり、次の小節では8分の5、その1小節後には元の4分の3に戻り、それも6小節後には1小節だけ8分の9という具合です(演奏する立場では、うまく頭を切り換えさえすれば、とりたてて大変なことでもないということのようですが……)。そして、弱音の弦楽合奏のうえで2本のホルンが第1楽章の主題による「答えのない質問」を投げかけて終わる。宙ぶらりんの感覚がたまらなく素晴らしい幕切れです。
 
 「黙示録的な嵐」(ハッリ・キースク)の第6番に対して、1956年から1958年にかけて作曲された第7番の交響曲は、小規模な管弦楽の表現力が念頭におかれています。第1楽章はアレグロ・モデラート。手さぐりするかのように始まり、フルートとファゴットが提示した第1主題をヴァイオリンが受け継ぐあたりから音楽の緊張が増してくる。第2番とともに、トゥビンの交響曲のなかでももっとも印象的な開始のひとつです。展開部でチェロが第1主題を弾くあたりの音楽は緊張感にあふれています。第2楽章は、間にスケルツォをはさんだメランコリックな音楽。そのスケルツォの途中にも葬送の音楽がはさまれています。アレグロ・マルチアーレの第3楽章は、不安をかきたてるような行進曲。コンパクトながら緊密に書かれた曲を締めくくるのは、ホルンとトランペットの高鳴り、そしてティンパニの強打です。第6番までの交響曲と同じ作曲家だとわかる痕跡をとどめながら、いわゆるマンネリズムに陥ることなく目標にむかって音楽を書き進めたことが、充実した作品を生むことにつながったと言われています。
 
 同じことは、その後の3つの交響曲についても言えます。10曲のなかでももっとも暗く、ひたすら情感に訴えてくる第8番(1966)。開始の憂鬱な気分と、全曲をつらぬく辛辣さと悲劇的な響きが、やはり忘れがたい印象を残します。第9番《シンフォニア・センプリーチェ(簡素な交響曲)》(1969)は、透明で明るい色調と悲しい気分が同居する音楽です。ヨーテボリ管弦楽協会から委嘱された第10番(1973)でも、トゥビンの豊かなイマジネーションと構成力は健在です。単一楽章を構成する各部分をつなぐ、呼びかけるように響くホルン。この旋律と弦楽の作り出す情緒的な雰囲気との対比が、感情の動きに幅を与えています。
 
 ところが、この3作品につづく第11番(1982)となると、作品について否定的な意見が聞こえてきます。第1楽章アレグロ・ヴィヴァーチェ・コン・スピリトだけの未完の作品 -- エストニアの作曲家カリヨ・ライド Kaljo Raid(1921–2005)が、ネーメ・ヤルヴィの依頼によりオーケストレーションを補筆 -- で、叙事的な音楽として書かれているものの、初期の作品のような充実した響きは聞こえてこないように思います。トゥビンが未完のままで残したのも無理ないことかもしれません。
 
 ともあれトゥビンの10曲の交響曲は、どれも深い感情に根ざしています。それでいて、過度に情緒纏綿とした音楽とすることを避ける節度とバランス感覚を備えていることも、トゥビンの美点ではないでしょうか。作為的なクライマックスを用意し、そのカタルシスで聴衆に媚びるなどということもありません。あくまで自分の音楽に忠実です。クライマックスで聞こえてくる「カッコいい」音楽も、内面に秘めた思いが大きさと勢いを与えた結果だと考えるのが自然でしょう。
 
 トゥビンは、1982年11月17日、入院先の病院で生涯を終えました。病床にあって、ウォークマンで彼が聴いた最後の音楽は「彼が書いたもっとも苦く、悲劇的な交響曲」(ルメセン)の第8番。ヤルヴィによるマルメでの演奏の録音でした。「みずからへの賛美歌」で終わる、とトゥビン自身が語った音楽です。
 
 第2交響曲の解説のなかでヴァルド・ルメセンは、スウェーデンの批評家ペール=アンデシュ・ヘルクヴィストの文章を紹介しています。「トゥビンが亡くなるまで、スウェーデン音楽界は、自分たちのなかに我々の時代の巨匠がひとり存在することをわかろうとはしなかった。それでもなお、我々にとって未知の初期の交響曲が天才の円熟期に属する作品なのでは、という気はしていた。そして今、我々の知らなかった交響曲第2番が演奏された。まさに衝撃だった。この独創的な、とりわけ、完璧な形式をもつ並はずれて刺激的な音楽を聞いて、わたしは人はばかることなく泣いた。まるで、大きな不幸が訪れる前のヨーロッパへの器楽レクイエム。ショスタコーヴィチの1930年代の最良の作品は、部分的に更に新奇だったり、その時代としてはもっと独創的かもしれない。だが、それらの曲も、表現の豊かさにおいてこの交響曲を超えることはまずできない。この曲は、戦前の音楽すべての中でも、もっとも人の心を動かす作品に数えられるべきだろう」(Alba ABCD 141)。
 
 トゥビンの交響曲は、第11番をのぞいて、エストニア出身のネーメ・ヤルヴィ Neeme Järvi(1937–) が録音しています。作曲者と親交のあったヤルヴィが作品に寄せる共感はむろんのこと、オーケストラ -- スウェーデン放送交響楽団、ベルゲン・フィルハーモニック管弦楽団、バンベルク交響楽団、ヨーテボリ交響楽団 -- のひたむきな演奏が音楽の意図するところを確実に表現し、実に見事です。ベルント・リュセル Bernt Lysell(ヴァイオリン)、ビョーン・シェーグレン Björn Sjögren(ヴィオラ)、ウーラ・カールソン Ola Karlsson(チェロ)、ベンクト・フォシュベリ Bengt Forsberg(ピアノ)、ヨリエン・ペッテション Jörgen Petterson(サクソフォーン)たちのソロも素晴らしく、名前の記載されていないベルゲン交響楽団の奏者も第4交響曲の第3楽章で印象的なヴァイオリンソロを聴かせます。
 
 フィンランドのレコード会社 Alba で全曲録音が進行中のアルヴォ・ヴォルメル Arvo Volmer(1962–)とエストニア国立交響楽団による演奏は、かなり色合いが違います。ヴォルメルは、トゥビンの音楽をすでに「古典」としてとらえているように思いますが、作品に対する共感はヤルヴィの演奏に少しも劣るものではなく、音楽に誠実に向き合っていることが感じられます。音楽によっては -- 第6番の複雑なリズムの処理のように -- ヴォルメルの演奏のほうが面白いところもあります。また、第5番の両者の録音をくらべた場合、ヤルヴィの方は、何となくオーケストラの音がくぐもって聞こえます。雰囲気を重視した BIS の録音が関係しているかもしれませんが、バンベルク交響楽団というドイツのオーケストラの特質も無視できないようです(個人的には、エストニアのオーケストラの抜けのいい響きに魅力を感じます)。いずれにしろ、一方を選ぶということはできないというのが、トゥビンの交響曲の場合は正しいように思います。希望を言うなら、ヴォルメルの第4番を一日も早く聴きたいというところでしょうか。
 
 余談ですが、Alba と BIS のディスクの解説を英語やスウェーデン語に翻訳したり、録音風景の写真を撮影しているエイノ・トゥビン Eino Tubin は、エドゥアルド・トゥビンの子息です。2000年の秋には、トゥビンの音楽を広く知ってもらうことを目的に国際エドゥアルド・トゥビン協会がタリンに設立されました。現在の会員は55名。近い将来、ホームページの開設も予定されているということです。
 
 トゥビンは、亡命後もなんどか祖国を訪れています。1961年12月、バレエ《クラット悪鬼(Kratt)》の改訂版初演にあわせたタルトゥへの旅が最初です。当初、ためらったようですが、結局はエストニア行きを決意。しかし、その前に忘れずにスウェーデンの市民権を取得しています。KGB の監視下での祖国訪問は決して楽しいものではなかったはずです。トゥビンがあと10年長生きし、自由になった祖国の姿を確かめることができていれば……。
 
 トゥビンが待ち望んだ独立を勝ち得たエストニアも、まだ政治的にも経済的にも安定しているとはいえません。バルトの他の2つの国、リトアニアとラトビアについても同様です。その三国に、同じ文化圏に属する北欧諸国から差し伸べられるさまざまな手は、未来に向けての希望の手。特に、類似した言語と文化をもつフィンランドは、国民合唱祭などのエストニアの音楽文化を自国の雑誌でも積極的に紹介しています。Alba が、トゥビン協会と協力してエストニアのオーケストラと指揮者による交響曲全集を企画したことも、そのひとつの表れです。
 
 フランスの映画監督ジャン・ルノワールが残した、平和というのは所詮は「大いなる幻影(Le Grand Illusion)」でしかないというメッセージ。たしかに、現実はそのとおりかもしれません。エストニアが、覇権主義に蹂躙される前の真の祖国の姿に戻るにはしばらく時間がかかることでしょう。しかし、トゥビンが音楽にこめたのと同じ思いをいだく人々の手によって新たな建設が始まっているのも、また確かなことだと信じます。
 
[2000年12月の Newsletter の文章を加筆修正して掲載しました]
 
Alba ABCD 141 エドゥアルド・トゥビン(1905–1982) 交響曲全集 第1集
 交響曲第2番 ロ短調 ETW2 《伝説の交響曲(Légendaire/Legendaarne)》
 交響曲第5番 ロ短調 ETW5
  エストニア国立交響楽団 アルヴォ・ヴォルメル(指揮)
 
録音 1998年1月23日–24日(第2番)、10月23日–24日(第5番)
 
Alba ABCD 147 エドゥアルド・トゥビン(1905–1982) 交響曲全集 第2集
 交響曲第3番 ニ短調 ETW3 《英雄的(Heroiline》
 交響曲第6番 ETW6
  エストニア国立交響楽団 アルヴォ・ヴォルメル(指揮)
 
録音 1999年2月8日–9日(第3番)、11月5日–6日(第6番)
 
Alba ABCD 155 エドゥアルド・トゥビン(1905–1982) 交響曲全集 第3集
 交響曲第4番《抒情的な交響曲(Sinfonia Lirica)》  ETW4
 交響曲第7番 ETW7
  エストニア国立交響楽団 アルヴォ・ヴォルメル(指揮)
 
録音 1998年9月23日–24日(第4番)、2000年3月10日(第7番)
 
Alba ABCD 163 エドゥアルド・トゥビン(1905–1982) 交響曲全集 第4集
 交響曲第8番 ETW8(1965–66)
 交響曲第1番 ハ短調 ETW1(1931–34)
  エストニア国立交響楽団 アルヴォ・ヴォルメル(指揮)
 
録音 2001年5月26日(第8番)、2000年1月28日–29日(第1番)
 
ABCD 172 エドゥアルド・トゥビン(1905–1982) 交響曲全集第5集
 交響曲第9番 ETW9
 《シンフォニア・センプリーチェ(簡素な交響曲)(Sinfonia semplice)》
 交響曲第10番 ETW10
 交響曲第11番 ETW130(未完)(カリヨ・ライド補筆)
  エストニア国立交響楽団 アルヴォ・ヴォルメル(指揮)
 
録音 2002年3月2日(第9番)、6月10日(第10番)、6月12日(第11番)
録音場所 エストニア・コンサートホール(タリン)
制作・録音・編集 マイド・マーディク 

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