『 ヴィクト・ベンディクスの交響曲』

 
19世紀の前半、童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンや哲学者キアケゴー(キルケゴール)、あるいは振付師のオギュスト・ブルノンヴィルが活躍した時代をデンマークの文化人たちは誇らしげに「デンマーク文化の黄金時代」と呼びます。音楽の分野では、ドイツから来たJ・A・P・シュルスやクンツェンが耕し、種を蒔いた、それまでの宮廷音楽の伝統とは異なる土壌にフリードリク・クーラウやC・E・F・ヴァイセといった古典的作風の作曲家が花を咲かせ、J・P・E・ハートマンやニルス・W・ゲーゼたちロマンティシズムの作曲家が華やかな彩りを添えた時代です。1843年に開園したコペンハーゲンのチボリ公園でハンス・クリスチャン・ロンビュー(ロンビ)のポルカやギャロップが人気を集めていたのもこのころでした。
 
デンマーク音楽のこの新しい流れを引き継ぎ、カール・ニルセン Carl Nielsen(1865-1931)への橋渡しをする役割を果たした作曲家のひとりがヴィクト・エマヌエル・ベンディクス Victor Emanuel Bendix(1851-1926)です。しかし、コペンハーゲンの中流階級の家に生まれ、10歳で四重奏曲(フルート、オーボエ、チェロとピアノのための)を書いたというこの作曲家については、いくつかのピアノ曲や歌曲の録音しかなく、名声の割には真価が伝わらないでいました。そして今、ベンディクスの交響曲の Danacord の全曲録音を手にし、やっと、デンマーク音楽史での彼の位置づけを知ることができるようになりました。
 
ベンディクスは、師事していたニルス・W・ゲーゼ Niels W. Gade(1817-1890)を初代の学長としてコペンハーゲン音楽院が開校すると同時に15歳で入学を許され、ピアノ科と作曲科の一期生となります。J・P・E・ハートマン J. P. E. Hartmann(1805-1900)もこの音楽院で作曲を教えていました。卒業してからは王立劇場のレペティトゥールを務め、短期のドイツ留学の後、ゲーゼの求めに応じて母校でピアノを教えることになります。以後、作曲家、ピアニストとして活躍し、彼の名声はデンマーク国外にも伝わっていきます。彼の交響曲は、兄のオトーが移住しボストンでピアニストと音楽教師として活動していたアメリカでも演奏されたといいますから、人気のほどがうかがえます。
 
小柄なエドヴァルド・グリーグよりわずか 1cm 高いだけ。特別にルックスが良かったというわけでもないのに、ベンディクスは女性に人気があったとい言われます。当然のようにスキャンダルもありました。ピアノの生徒のひとりアウゴスタ・シューラーの望みでもうけた男の子の認知をめぐり、刃傷沙汰寸前までいった挙げ句、一家をあげてドイツにまで逃げるはめになってしまいました。彼にちなんで名付けられたこの男の子が、後にデンマークを代表するピアニストになるヴィクト・シューラーです。シューラーは、ニルセンの娘婿のエミール・テルマーニと共演したニルセンのヴァイオリンソナタ第2番が録音で残されています(Danacord DACOCD 360/362)。
 
ベンディクスはデンマーク・ロマンティシズムの作曲家とピアニストとしてデンマーク音楽史に名をとどめています。そして、このアルバムのブックレットの解説を担当した音楽学者のモウンス・ヴェンセル・アンドレーアセン Mogens Wenzel Andreasen が、ベンディクスの重要な業績のひとつと指摘するのは、彼がカール・ニルセンの「新しい世代の」音楽を積極的にバックアップしたことです。聴衆の拒否反応も意に介さず、ニルセンの若い時期の管弦楽曲をベンディクス自ら指揮したこともありました。では、音楽は「しばしの間、人々に日々の憂さを忘れさせるため」にあると考えていた根っからのロマンティストが「デンマーク音楽に新風を」というニルセンの音楽をなぜ応援したのか。ニルセンの第5交響曲が初演された翌日の1922年1月25日にベンディクスがニルセンに宛てた手紙が残っています。
 
「カール・ニルセン君
 日曜日の君の作品のリハーサルから戻った私は、とまどい、がっかりしていた。昨夜のコンサートでは『映画交響曲(Symphonie filmatique)』の不快な不協和音に激怒しながら、その場を立ち去った。この恥知らずの策略と、もの珍しさや刺激を待ち望む、無防備でお高くとまった平凡な聴衆の群の顔面めがげた握り拳。ほとんどの連中は、自分の鼻血で汚れた手を舐めたくて仕方がなかったはずだ。そして昨日の夜更け、睡眠から目を覚ました私は、そのまま眠れなくなってしまった。君の音楽のせいだ。そのとおり。わたしは、もう一度君の音楽を聴きたくてしかたなくなっていた。嫌悪していると知りつつも心を奪う君の音楽。その生命力、力強さと自立性。どの小節からも君の個性的な音楽が聞こえてくる。これから達成されるはずのもの、おそらく完成不可能に違いないものに向けて君を引き寄せていく力。天才のひとつの確かな兆しが見てとれる。すでに月桂樹の冠を授かっているにもかかわらず表面に見せる崇高なつましさ、そしてとどまることを知らない創造への欲求。まれにみる天賦の才能と鋼鉄の意志の両者が備わってはじめて獲得できる、類のない自由な動き。芸術というものが共通してもっている熟達を見ることができる。そして君は、遙かな頂点と遠い深淵へ向かおうと努力することにより、小さく、あまりに脆弱で偏狭な我々のデンマーク芸術に抵抗する。当然だろう。そうだ、多くのことが、とても多くのことが君の音楽からは聴こえてくる。私自身に君ほどの耳があったなら、老いるということはもっとたやすいことだったろう。ご多幸を - ただし、君が楽派を作らないことを祈って! 敬具 V・B」
 
(全文の紹介を許可してくださったアンドレーアセン氏と Danacord Records のイェスパー・ブール氏に感謝します。ブックレットには英訳しか掲載されておらず、デンマーク語の原文を参照できないままに重訳したことをおことわりしておきます)
 
[注 「映画交響曲(Symphonie filmatique)」の「filmatique」というフランス語風の単語は存在せず、ニルセンの第5交響曲を聴いたベンディクスの造語だろうと、アンドレーアセンは考えています。ベルリオーズの幻想交響曲 Symphonie fantastique を念頭におき、「汚らわしく、無教養であるにもかかわらず、面白く、魅力的な」新しい芸術の形として一般化してきた「映画(film)」にニルセンの新しい音楽を重ねたはず、と私の質問に対して返事が寄せられました]
 
アンドレーアセンによると、ニルセンはベンディクスのこの手紙に深く心をうたれたといいます。そして、1931年、死を間近にして、ベンディクスの二人目の妻ダウマーに書き送った手紙で「ヴィクトーの慈愛にみちた、毅然とした言葉は、それがたとえ批判であっても常に励ましになった」と語り、彼の「作曲家、指揮者、そして教師としてのデンマーク音楽における重要さ」を述懐しています。ベンディクスを尊敬したニルセンは、ピアノのための交響的組曲を彼に献呈しました。
 
ベンディクスの最後の交響曲となる第4番は1906年の作品です。彼がこの作品を書く以前に、ニルセンは第1番(1891–92)と第2番《4つの気質》(1901–02) の2曲の交響曲を作っています。そしてベンディクスは、1926年に亡くなるまで、創作活動は「次の世代のチャンピオン」カール・ニルセンにまかせ、自身はピアニストとしての活動に専念しました。1921年にヘルシンキで開催された「北欧フェスティヴァル」では彼の代表作のひとつとされるト短調のピアノ協奏曲を完璧な技巧と集中力で演奏し、会場を埋めた聴衆から大喝采を浴びたということです。
 
カール・ニルセンの音楽を擁護したことで敵も作ったでしょうが、ベンディクスが多くの人から愛された作曲家だったことは間違いのないところです。彼の交響曲は、ロマンティックな音楽への憧れを抱いていた当時の人々の耳にはこのうえなく魅力的な作品に響いたでしょう。4曲の交響曲は、それぞれ異なる個性と魅力がありながら、旋律の美しさと構成の巧みさという点で共通しています。
 
1882年の交響曲第1番は、ハ長調で書かれ、デンマークの詩人ホルガー・ドラクマン Holger Drachmann の同名の詩による《山登り(Fjeldstigning)》の副題がつけられました。アンドレーアセンによると、ベンディクスがドラクマンの詩にインスピレーションを求めたというより、作曲者と話した後でドラクマンが詩を作ったというのが正しいのではなかろうか、ということです。スコアには詩の短い引用が印刷され、4つの楽章には「序曲(Overture)」「夜想曲(Notturuno)」「荘重な行進曲(Marcia solenne)」「終曲(Finale)」という、詩のタイトルがそのままあてられています。
 
〈序曲〉の第2節「見よ、太陽が山の斜面を昇っていく 雲の波をかき分けて 言い伝えでは愛の社(やしろ) が 山のいただきにひそむという」にも見られるように、ドラクマンの詩、ベンディクスの曲ともに極めてロマンティックな雰囲気をもっています。作品の様式と管弦楽法にフェレンツ・リストの作品を思わせるところがあることから、ベンディクスはリストの交響詩《山の上で聞いたこと》(山岳交響曲)を知っていたはずだ、とアンドレーアセンは考えています。スケルツォに相当する第2楽章〈夜想曲〉の流れるような弦の旋律と〈終曲〉の至福にみちた高揚感が強く印象に残る作品です。
 
交響曲第2番ニ長調(1888)には《南ロシアの夏の響き(Sommerklange fra Sydrusland)》の副題がついています。ロシアに旅したベンディクスが南ロシアの自然と民謡から受けた印象をもとに書いた作品ではないかとされ、第1楽章冒頭アンダンテの部分の明るい主題や短いプレストを経てアレグロに入ってすぐの動機とでも呼べそうな簡潔な旋律には「明らかなロシアの響き」が感じられると言われます。アンドレーアセンは、ホ短調の第3楽章をのぞき残りの3つの楽章すべてがニ長調ということから音色の対比が少なく、この点をこの曲の弱点として挙げています。しかし、「主題と旋律の明らかにロシア的な色合い」とデンマーク的な感覚がうまく溶け合った「牧歌的な交響曲」とでも呼びたくなるような、心地いい交響曲だということは確かです。
 
ベンディクスの交響曲のなかでもっとも魅力的な作品はイ短調の第3番(1895)でしょう。〈幻想曲〉〈スケルツォ〉〈エレジー〉の3つの楽章からなり、そのすべての楽章が個性的な旋律で埋め尽くされています。簡潔、素朴、純粋、清冽、威厳、軽快、ユーモラス、哀切……。心に触れる音楽をどの言葉で言い表せばいいのか。この音楽を聴くと、ベンディクスの作曲の師がニルス・W・ゲーゼだったこと、そして、ゲーゼと親交のあったメンデルスゾーンに《スコットランド》というイ短調の交響曲があることを思い浮かべました。どうして、これだけ充実した魅力的な交響曲がこれまで、まったく忘れ去られたままでいたのか。現代の聴衆の感性にも訴えかける、情緒豊かな音楽です。
 
ニ短調の第4番もベンディクスの特色がよく表れた音楽です。第1楽章と終楽章の情熱、古い時代を懐かしむような第2楽章、情緒的な第3楽章アダージョ・ノン・トロッポ。彼の歌曲と共通する、自然に湧いてくるような旋律が魅力的な作品です。ただ、第3番のあとで第4番を聴くと、どことなくベンディクスが何かにこだわっているような感じが捨て切れません。アンドレーアセンが 「第1楽章と第4楽章のフーガのパッセージと第2楽章のオーボエの動機の2カ所に、カール・ニルセンの音楽がベンディクスの心に何かを残したことが聞いてとれる」と記しているように、この曲を書きながら作曲者は、カール・ニルセンのように、何か新しいものを模索していたのでしょうか。そして、根っからのロマンティストのベンディクスは、ニルセンが切り開いていった時代に作曲家としての自分が入りこんでいくことができないことを知り、「新しい音楽」をニルセンに託すことにしたのではないか。第4番の交響曲を聴いたあと、どことなくそんな気がします。そして、もしそうだとすれば、それがベンディクスの誠実さ、あるいは潔さなのか。ひとりの人間としてのベンディクスへの興味が湧いてきます。
 
この交響曲全集のCD番号は、ラウニ・グランデール指揮の歴史的録音による 『デンマーク後期ロマン派交響曲集』(DACOCD 370/371 1996年)にすでに記載されていました。しかし、その時点では第4番しか録音が終わっておらず、その後、全曲録音の計画は白紙に戻されました。それが1999年の今年、やっと全曲の録音が完成した背景には色々な事情があったようです。「デンマーク音楽のレガシー」を「音」として記録するというイェスパー・ブール氏の熱意の賜物でしょう。念願のベンディクスの交響曲の録音を完成させたブール氏によると、「『カール・ニルセン作曲』の品質保証のない交響的音楽すべてに対する批評家たちの嫌悪に裏書きされた、デンマーク音楽界の無関心」から演奏の機会さえ与えられず、全曲を録音するなど「夢のまた夢」だったということです。
 
ブール氏の夢のひとつだったルーズ・ランゴーの交響曲全曲はデンマークのオーケストラではなく、彼が「泥を投げられる - 個人攻撃される - ことのない距離」と呼ぶ、ポーランドのアルトゥール・ルービンシュタイン・フィルハーモニックによって録音されました。このベンディクスの録音も、ポーランドから更に離れ、シベリア西部の都市オムスクのフィルハーモニックを使って行われています。録音に関してはヨーロッパでも無名のオーケストラのはずです。コスト面でのメリットはなかったということなので、自国のオーケストラを使うことができなかったあたりにデンマークの音楽界の切実な事情がうかがえます。
 
ブール氏はこのシベリアのオーケストラにプロジェクトをゆだねたことを正しい選択としていますが、できることならデンマークのオーケストラを使ってほしかったという思いは残ります。洗練された管弦楽の響きを求めたいというだけでなく、個々の楽器の力量にもばらつきが感じられます。弦楽器に潤いが乏しいのは録音の問題もあるかもしれません。でも、作品に対する共感、そして存在をアピールするチャンスを逃がすまいとでもいうかのような集中力の強さを見せた演奏には恥じるところはなく、繰り返し聴くうちに作品本来の魅力もあって、それほど気にならなくなってくるのも確かです。
 
指揮者のエフゲニー・シェスターコフ Evgenyi Shestakov は、1949年生まれのロシア人。オデーサのオーケストラとヴラジヴォストーク放送管弦楽団を経て、1992年にオムスク・フィルハーモニック管弦楽団の首席指揮者に就任しました。音楽の大きな流れを見据え、確かな舵さばきで進めていく腕をもっています。旋律を思い入れたっぷりに歌わせすぎるということをしていないので、情緒がまとわりついてくる不快感もありません。たくましい音楽づくりをしていながら、どことなく爽やかさが感じられるのはそのあたりに理由があるのかもしれません。
 
この全集は1枚目のディスクが第2番と第4番、2枚目が第1番と第3番という構成になっています。シェスターコフとオムスクのオーケストラが第2番をもっとも気に入ったためにこれを最初に配置、アンドレーアセンとブール氏がアルバムを締めくくるべき曲と考えた第3番を最後に置くことになったと言います。
 
ランゴーの全集はデンマークの音楽ジャーナリズムの徹底的な攻撃にもかかわらず 、内外の多くの人たちから支持されました。このベンディクスの交響曲全集も、北欧音楽のファンだけでなく、ロマンティックな音楽を愛する多くの人たちから暖かく迎えられるような気がします。デンマーク音楽情報センターの友人も「楽譜でしか知らなかった作品を音で聴くという楽しい経験ができただけでなく、何かとても素晴らしい発見をしたような気がする」と言ってきました。この全集録音が 「カール・ニルセン以外の交響曲」に対するデンマークの批評家たちの考え方を少しずつ変えていくきっかけになれば、ルイス・グラスの6曲の交響曲録音を含む新たなプロジェクトも順調に進むことになります。すでにイギリスをはじめとするヨーロッパ各国では、このベンディクスの全集は好意的に受け入れられているようです。デンマークの人たち、特にジャーナリストたちが自分たちのもっている遺産の価値に気づくのも時間の問題のように思います。
 
追記 ベンディクスの《交響曲第3番》は、2007年1月25日、広島交響楽団の第265回定期演奏会で秋山和慶氏の指揮で日本初演されました。
 
ヴィクト・エマヌエル・ベンディクス(1851-1926) 交響曲全集
 交響曲第2番 ニ長調 Op.20《南ロシアの夏の響き(Sommerklange fra Sydrusland)》(1888)
 交響曲第4番 ニ短調 Op.30(1906)
 交響曲第1番 ハ長調 Op.16 《山登り(Fjeldstigning)》(1882)
 交響曲第3番 イ短調 Op.25(1895)
  オムスク・フィルハーモニック管弦楽団
  エフゲニー・シェスターコフ(指揮)
 
録音 1995年(第4番)、1999年7月–8月 オムスク・コンサートホール(オムスク、ロシア)
録音エンジニアリング Euginie Shebanov
 
価格 5,390円(税込価格)(本体価格 4,900円)
 
[1999年12月の Newsletter の文章を加筆修正して掲載しました] 

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